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2007年12月26日 (水)

■ベイズ推定:オオカミ少年

 「オオカミ少年」とは、ハニカミ少年や、滑舌が悪くて、オオカミの少年ではない(言われなくても、わかっている)。「オオカミが来たぞ~」とウソをつく少年だ。いわゆる人騒がせな愉快犯。何度もウソをつくので、すっかり村人の信用を失い、ホントにオオカミが来たときに誰も信じてもらえなくなる童話。では、どのくらいウソをつくと、あの人はウソつきだという確信を抱くようになるのか。「ベイズ推定」を使った「オオカミ少年」シミュレータ。

≪参考≫
意思決定の基礎」松原 望/著

 「嘘つき、正直」と「ウソ、ホント」の数値は、それぞれの性向を表す。で、「オオカミが来ない確率」というのは、まわりくどい表現だが、「オオカミが来るぞ~」と言ったが、実際は「オオカミが来ない」場合の確率、結果的にウソをついたことになる(オオカミが来る、来ないかは乱数で決めるが、その度合)。グラフの縦軸は、嘘つきであると判断する「確信度」を表す。

 で、何度かグラフを描いてみると、同じ数値でも、かなり違ったグラフになることがある。オオカミが来る、来ないかは乱数なので、結果的にウソではなく、ホントと判断されることが続く場合だ。でも、たいていは、20~30回くらいで、確信度は「1」(100%)に近づき、「嘘つき」と断定されると、以降は、ホントのことを言っても、その確信は揺るがないものとなる。

 「たけしのコマネチ大学数学科」でも、これまで「確率」を扱った問題が出されることがあった。確率の問題は、数学落ちこぼれの爺を悩ました。そこで、少し「確率」のことを学んでみたい気になって、先の「意志決定の基礎」という本を読んでみたわけ。じつは、かなり前に、この「ガスコン研究所」にコメントをいただいた、亀田氏から紹介してもらった本^^; 内容はすごく興味深いんだけど、数式はバンバン出てくるし、私には、難し過ぎて、正直なところ、たぶん、書いてあることの10%も、理解できてないと思う;;

 「オオカミ少年」の童話だって、世の中で仕事をしている大人なら、一度でもウソをついたり、約束を守れなかったら、長い間、築き上げてきた信頼は、一瞬で崩れ去り、仕事を失う……ことぐらい、わかるはず。ベイズ推定をするまでもない><;

 でも、小島寛之氏の「確率的発想法」(NHKブックス)や「使える!確率的思考」(ちくま新書)は、非常にわかりやすい言葉で、これまで私が抱いていた「確率」という言葉から受けるイメージを一新し、アルコール漬けの酔っ払い爺の頭を覚醒させてくれた。

 トーマス・ベイズ(1702~1761)は、イギリスの牧師であり、数学者であった。ベイズの考え方とは、たとえば、裁判のように(日本では、陪審制度はこれからだが)、最初は、容疑者が犯人であるかどうかの先入観を抱かず、五分五分とする。裁判が進むに従って、証拠が示され、それによって、犯人である確証を得る、といった行程を考えるとわかりやすい。

 しかし、20世紀の初頭、ロナルド・フィッシャー(1890~1962)らによって、こてんぱんに批判され、一度は葬り去られたんだよね。フィッシャーの考え方は明確、オオカミ少年の言動と実際に起きたことの事例を取って、つき合わせれば、ウソを言った確率(ウソつきの度合)を算定できるわけ。まあ、100事例でも、データを集めれば、正直者が間違って「オオカミが来た」と判断することと、区別ができるわけ。

 たとえば、サッカーなどの試合の先攻、後攻を決めるコイントスだけど、もしも、このコインに細工が施されていて、10回投げたら、6回は「オモテ」が出るとする。で、細工が施された「ニセモノ」のコインか「ホンモノ」のコインかを見極めるとき、100回投げてみて、49回が「オモテ」だった。あなたなら、このコインをホンモノと判断するか、それともニセモノのコインと判断するか?

20071226_01

 「ホンモノ」の場合、表が49回、裏が51回出る確率は、0.5×0.5×0.5……と計算していくと、「0.5^49:0.5^51」。それに対して「ニセモノ」のコインが表49回、裏51回になる確率は「0.6^49:0.4^51」になる。両者を比較すると、ホンモノとニセモノの比は、10倍以上にもなる。

 フィッシャーによれば、100回のデータを取り、もしも、「ニセモノ」なら、6/10の割合でオモテが出るはずなのに、結果的に「49回」ということは、「ホンモノ」だと判断してもいいだろう(大数の法則)ということになる。

 フィッシャーの説は、ごもごもごもごも、ごもっとも。最尤(さいゆう)思想。しかし、世の中は、何が起きるかわからない「不確実性」の時代なのら。そんな悠長なことは、やってられないよね。で、あらためて注目されたのが「ベイズの定理」と呼ばれる、確率理論なのだ。

 ベイズの理論を適用すると、少ないデータ数でも、それなりの判断を下すことができる。いわば、結果から原因を推定する。「ベイズの逆確率」、あるいは「ベイズ推定」と言われる所以だ。

 フィッシャー流と大きく違うのは、いきなりニセモノとホンモノの標本空間を作ること。標本空間とは、可能性を列挙したもので、この場合、コインはニセモノかホンモノかの二者択一なので、標本空間(Ω)={ニセモノ,ホンモノ}って感じになる。最初はデータがないので、主観的なオッズを決める。ここでは、ニセモノかホンモノであるかは五分五分と考え、P(ニセモノ/Ω)=0.5、P(ホンモノ/Ω)=0.5としておこう。

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 で、1投目が「オモテ」だったとする。このデータを標本空間に流し込むと、P(ニセモノ&オモテ/Ω)=0.5×0.6/Ω、P(ホンモノ&オモテ/Ω)=0.5×0.5/Ωになる。つまり、ニセモノの確信度は、(0.3/(0.3+0.25))=0.5454…(6/11)と、最初のオッズより、ちょっとだけ高くなる。1回のデータから、ニセモノの確信度がアップデートされるわけ。

 2投目以降は、最初から計算する必要はなく、もし「オモテ」なら、直前の(6/11)に0.6を掛け、全体で割ればよい。これもベイズ推定の便利なところで「逐次合理性」という。

 というわけで、私自身が「ベイズ推定」をどの程度、理解できたかを確認するために、だらだらと書いてきた。20世紀前半に大数の法則を基盤とした頻度主義の集大成としての「確率理論」は完成した。しかし、ベイズ主義、ベイジアンたちは、大数の法則ではなく、あくまで人間の心理的側面、主観的確率を根幹に置いたため、さまざまな確率理論がいっきに花開き、多様化した。ひとつだけ、説明のために「確率的発想法」から引用させていただく。

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「あなたは、玉の色を予言し、どちらかの箱から、目隠しをして玉を1つ取り出す。予言が見事当たれば、賞金がもらえる。さて、あなたなら、どちらの箱を選ぶか?」

 エルスバーグが行った心理実験の結果は「大多数がAの箱を選ぶ」というものだった。Aの箱も、Bの箱も、予言した玉を引くという主観確率は同じはず。期待効用理論では説明がつかないということ。

 では、ふたつの箱の違いは何かというと、Aの箱では、赤い玉、もしくは黒い玉を引く確率が(1/2)と、はっきりしている。しかし、Bの箱では、それがわからない。たとえば、Bの箱には赤い玉は1個だけで、残りはすべて黒い玉かもしれない。この場合、赤い玉を引く確率1%、黒い玉を引く確率は99%だ。予言が黒なら99%の期待効用があるが、予言が赤なら1%になり、結局(1%+99%)÷2で主観確率は変わらない。

 どうやら、人は、不確かなことを避ける傾向があるようだ。赤か黒い玉を引く確率が五分五分なら、自分が引いた結果を納得するが、自分の決断以外の何か不確かなことが影響すると考えると納得できないということか。なるほど「リスクと不確実性」は違うってことを再認識させられた。

 じつは、確率計算できる不確実性を「リスク」と呼び、「不確実性」と区別したのは、フランク・ナイトという経済学者らしい。「測定可能なリスク」は、少しも不確実ではないと断定し、確率さえわからない本当の不確実性は、過去の生起頻度から割り当てられもしないと。

 エルスバーグは、既存の確率理論から加法性を取り除くことで、数理的に説明できるモデルを作り上げた。「足して1にならない確率」だ。このような確率理論で基礎だった加法性が崩れ去った確率を最初に取り上げたのは、物理学における量子力学であったという。経済学では「ナイト流不確実性理論」と呼ばれるらしい。

 不確実性回避とは、どのような行動か、小島寛之氏は、株の「期待値戦略」や「薄商いで小動き」の心理として説明する。また「構造改革」が進まないことの原因として、族議員や官僚たちの「既得権益」が挙げられることがあるが、小島氏は、構造改革論が見落としている点として、「既得権益」や「不合理な国民性」などの論を使わず、確率論として説明を試みる。

 いつのまにか、この国では「自己責任」という言葉が溢れるようになった。金融の自由化やペイオフの解禁など、市民が率先してリスクを取る社会だ。「市場システム」の中で自由競争をすれば、経済は活気づく。その際、敗者が出たとしても、競争がフェアなものであれば、しかたがないという自己責任論だ。

 しかし、小島寛之氏は、ここにも「確率の濫用」が見られると警鐘を鳴らす。自己責任論が成立するためには、3つの前提が必要だと言う。第1は、言うまでもなくルールの公平性。第2は、効用の完全知、あるいは選好の完全知。たとえば、「進学や年金や住宅購入といった一生に何度も経験しないような意志決定の失敗に対し、お前は好きでやったのだから自己責任だ」と言うのは、確率理論のはき違えだと言う。第3の前提は、個人の情報と知識によって参加を回避できること。

 こうしてみると、正規雇用と非正規雇用の格差の拡大、ワーキングプア、限界集落、さらに薬害など、さまざまな問題は、自己責任論ではかたずけることができない。行政の失敗によって引き起こされたものだからだ。

 「社会の平等性」と「確率」は密接な関係があると小島寛之氏は説く。「平等性」を考えるとき、「不平等」と感じることを考えてみるとわかりやすい。生まれた家の富の違い、体格の違い、知能の違い、健康さの違い……これらの差異は、幸不幸を決定づけたりする。さらに私たちが生きていく過程のさまざまな意思決定が多様な結果をもたらす。これらは、すべて確率的な出来事の帰結である。

 不確実性の世の中を生きていくための、意志決定には「確率的発想」が必要というわけだ。さらに「よりよい未来」を設計するにも「確率的発想」が必要になる。

 少し前のエントリ「算数の発想」を含め、小島寛之氏の本をたった3冊読んだだけで、私はすっかり「小島寛之」ファンになってしまった。私は、世の中に氾濫する「先生」という言葉が好きではないので、尊敬の念と親愛の情を込めて、勝手ながら師と仰ぎ、これからは、小島寛之センセと呼ぼう^^;

■参考になるか、どうか、わからないけれど、今回制作したFlashのダウンロード

cry_wolf.zip(141KB)※Flash8

確率的発想法 確率的発想法-数学を日常に活かす
著者/小島寛之
発行/日本放送出版協会
価格/920円+税
ISBN4-14-001991-3

使える!確率的思考 使える!確率的思考 (ちくま新書)
著者/小島寛之
発行/ちくま書房
価格/700円+税
ISBN4-480-06272-6


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コメント

初めて書き込みします。

私は一応数学のホームページを作っている藤崎といいます。ホームページを始めたのは去年の6月からですが、今年の10月からコマ大の問題を解く奮闘記を書いています。

奮闘記を作る上でこちらの内容を参考にしているときもあります。勝手ながら今後ともよろしくお願いいたします。しかし、福岡では放送が何週間か遅れている模様です。ですから「ラッピング」「サムロイド」の回の内容は見ないようにしています。

蛇足ですが、上のベイズの定理の話ですがこの回の放送も見ましたが途中でビデオが切れて最後まで見られませんでした。本問の解答は今ひとつ理解できませんでしたが、最初にあったカップ&ボールの例のからくりは理解できました。

投稿: 藤崎 竜也 | 2007年12月30日 (日) 10時15分

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